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マーリン キャローザース師の感謝の信仰

祈りへの答え

あそこに就職するにはどうすれば良いのでしょう?
良き夫や妻、親であるためになすべきこととは?
祈りが聞かれるためには、一体、何をすれば良いのでしょうか?人生の大事すべてについて、私たちは何をしたらよいのかという答えにせまられ ています! しかし、イエスさまは、どうしたら祈りが答えられるかについては、 完璧な答えを用意してくださっていました。こうおっしゃっています。“心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せ よ。" マルコの福音書 12章30節私たちが最も必要とするのは、結局、神さまを愛することにつきる、と言うのです。な ぜなら、”愛には決して間違いがない”(1コリント人の手紙 13:8) からです。

神さまへの愛が成長すれば、そのことが、祈りへの答えを得るための道となります! 神さまを愛す ることによって、多くの祝福を受ける道が私たちに開かれます。例えば、病を得る、悲劇 が起きるなどは、決して良いこととは言えません。しかし、そんなことなども、この御言 葉の前には膝をかがめざるを得ないのです。

"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。" ローマ人への手紙 8章28節

私たちにもできる良い行いはたくさんあります。しかし、神さまへの愛が成長しない限 り、霊的なパワーに欠けていると言わざるを得ません。”神は愛” ですから、神さまへの 愛を学ぶことは、私たちを神さまにより近いものとするのです。イエスさまの神さまに対 する愛と服従は完璧なものでした。だから、イエスさまは、神さまの力の全てを用いるこ とがお出来になりました。私たちを励ますために、さらに、こうおっしゃっていました。
"わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わ たしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。" マタイの福音書 11章29節

あなたがたくさんの悩みを抱えている人だったら、まず神さまをもっと愛することから 始めなさいと、私は強くお勧めします。 神さまをもっと愛することを学ぶ。どうしたら、そんなことができるようになるでしょ う? その答えもまた、御言葉の中にありました。

"私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。" ヨハネの手紙 第一 4章19節
今までに神さまがしてくださったことを知れば知るほど、私たちの神さまへの愛は深く なります。

"このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、 さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあって キリストと同じような者であるからです。"
ヨハネの手紙 第一 4章17節

神さまにして頂きたい様々なこと。私たちはこのことだけに心を集めていることがあり ます。それが普通のことかも知れません。しかし、自分の欲望ばかりに心を集中すると、 イエスさまが、私たちに知って欲しいと思っておられることに心がいかなくなります。 あるとき、10名のらい病患者がイエスさまのところにやってきましたが、イエスさま は全員を癒されました。だが、

"そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら 引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。"それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直 したのです。」"
ルカの福音書 17章15、19節この一人の男が戻ってきて、自分が癒されたことを神さまに感謝し、称えたとき、彼は イエスさまへの愛も表していたと、私は思っています。 頭を悩ます問題を抱えていたら、神さまが過去にしてくださった素晴らしいことの数々 に、もっと注意を向けてみてはいかがですか? あなたがキリストの義を持つことができ る方法を、神さまは、無償の贈り物として備えて下さっていました。"キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる 信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、と いう望みがあるからです。"
ピリピ人への手紙 3章9節不平不満を言う代わりに、神さまに思いを馳せる。このことが、すべてのことに対して ごく普通の反応となるまで繰り返すことを学びとることができます。それが学べれば、聖 霊さまと私たちを結ぶチャンネルができ、この困難な世にあって、どうしたら勝利の人生 を生きることができるかを聖霊さまが教えてくださいます。神さまがして下さった素晴らしいことの数々に感謝する時を、I日のうちに何回も持ち ましょう。そうすれば、あなたの中で、神さまへの愛が成長し始めます。こんな聖句を繰 り返すのも良いでしょう:"いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神 に感謝しなさい。"
エペソ人への手紙 5章20節
この御言葉が、気が付かないうちにあなたの一部となった時、神さまに対するあなたの 愛は、かってないほど大きなものとなります。

2020年12月 4日 (金)

クリスマス プレゼント

クリスマスの贈り物

 今年1年の間に、私たちが配っている ”プレイズ・ニュース” が送り返されてきたというケースが数多くありましたー”受取人死去”の印が押されて。つまり、プレイズ・ニュースのクリスマス版を毎年読んで下さっていた友人たちの中には、今年のクリスマスにはもうこの世にいない人たちが沢山いたのです。今、来年もクリスマスをともに祝えると自信満々の人たちがいますが、死亡通知をもらった人たちの中にも、昨年、同じように自信満々だった人たちを、私は沢山知っています。この人たちはもう、この世でクリスマスを祝うことはありません。この事を思う時、私はこんな祈りを導かれます。

 ”主よ、あなたの誕生日を祝わせてください。あなたが私に求める事を行い、あなたが望まれる人生を生きることによって。御霊が、私のなすことすべてを導いてくださいますように。”

”人に与えることは、クリスチャンとしての信仰の重要な部分です。”

 しかし、この与えるという行為にも堕落があります。私たちは、クリスマス・プレゼントと言う義務を果たすため、必死になってデパートを走り回ったりします。クリスマス当日までに疲れ果て、それが終わると、やれやれと喜んだりするのです。義理で行うプレゼントは、与える喜びを人から完全にに奪ってしまいますーでも、本当は、そんなことがあってはならないのですがね。

 今年のクリスマスでは、私たちのショッピングの中にも、イエスさまの御霊が存分に働かれるものとしなければなりません。与える喜びが、この世的な霊によって奪い去られることがあってはならないからです。どんなプレゼントでも良いのです。与えるすべての友人や親戚の人たちのために、喜びを持って主に感謝しましょう。来年の今頃、その人たちはこの世を去っていて、与える喜びをもう二度と得られないかも知れないからです。

 プレゼントを買うお金があれば、お金を持っていることを喜びましょう。買うお金がなければ、持っていないことを喜びましょう。お金がないことを嫌悪すれば、そのために不幸になるかも知れません。でも、自分の人生も、所有するすべてのものも、すべて神の御手の中にあることを信じるなら、心が解放され、どんな人生を送っていても、それをエンジョイできるのです。

 与えることは、それが良きものであるように努めなければなりません。例えば、お気に入りだからと言って、一人の子供に沢山のプレゼントを買い与え、他の子達にはほんの少しとか、全くあげないなどと言うことをすれば、大きな不親切と言う罪を犯したことになります。借金があるのに豪華なプレゼントをすれば、支払い不能となるでしょう。結果として、人に迷惑をかけることになります。与えることには、バランスが必要なのです。

 さて、あなたの今年のクリスマス・プレゼント、どんなバランスが用いられるでしょう? 忘れてはなりません。これは、キリストの誕生日なのです。クリスマスのプレゼントのうち、何%が主に捧げられるものとなるでしょう? 正しいバランスが取られるような判断をお勧めします。主が望んでおられるものを捧げるのです。

 私について言えば、主がプレゼントとして望んでおられるのは、私たちが主の愛を牢獄にいる人たちと分かち合うことだ、と確信させられていました。私たちが、誰か牢獄にいる人を助けるなら、それは主を助けたことになると語られたのです! 囚人の中には、恐ろしい犯罪を犯した人がいるのを、主はご存知です。しかし、そんな人たちも、時には霊的な助けが必要なのです。そんな人たちを、牢から出してあげなさいなどと、主はおっしゃいませんでした。”訪問しなさい。”と言われたのです。今年のクリスマスに、私たちの団体、”賛美の財団” からのプレゼントを携えて囚人たちを訪問してください。そうすれば、キリストの愛を分かち合うことができます。他の誰に送るより多くのプレゼントをキリストに捧げることができるように祈りましょう。この祈りがあれば、クリスマスのショッピングすべてにおいて、本当のクリスマスの心を実現できます。なすことすべてにおいて、キリストがその中心におられるようにして、今年のクリスマスを、今まででもっとも楽しいクリスマスとしましょう。(1995年12月に書かれたメッセージです)

2020年11月 3日 (火)

大切なレッスン

大切なレッスン
 会堂司のヤイルスは、自分の娘が今死んだとの知らせを受け取りました。だが、イエスさまは彼におっしゃいました。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」 マルコの福音書 536
この言葉を聞いて、ただイエスさまを信じると言うことは、死んだ娘の両親にはかなり難しいことだったでしょう!
 どの人も、書き出せば何ページにもなるほどの困難、問題を抱えているものです。そんな困難に出会うと、人は誰か助けてくれる人を求めます。人はその人を励まし慰めてくれるかも知れません。だが、多くの場合、人はそれ以上の何かを求めているのです。人からの助けに抵抗を感じることもあります。それは、自分の受けている困難がどれほど大きいかを理解していないと思うからです。また、私たちは、なぜ誰も助けの手を述べてくれないのかと思ったりするかも知れません! でも、もし私たちが、自分の問題ばかりに集中しているなら、そこから一歩も前に進むことはありません。
 神さまが望んでおられるのは、本当に必要なのは、神さまだけにお出来になる助けであることを私たちが理解することなのです。
 イエスさまは、まさにこの私たちが必要としている助けを与えるためにこの世においでになりました。それは、私たちの心を変えることでした!
 私はあなた方の内に住まう。 とイエスさまはおっしゃっています。私たちの存在の中心、心そのものを変えようとされているのです。その変化は、私たちが、生まれ変わった 時から始まります。それだけでなく、イエスさまは、私たちを変え続けて行こうとされるのです。
 鏡を見れば、そこに自分が写っています。しかし、神さまは、私たちの中に、ご自分の御子を見ようとされているのです! 神さまは、私たちの中に、人が目指すべき目標の人、御子を見ようとしておられ、私たちが成長し、その人のようになるための機会を色々と与え続けられます。だが、私たちは、自分の身に起こること見て、これが神さまがなさろうとしていることだと言うことを理解することはなかなか出来ません。
 人はまるで子供のようですー子供は、なぜ毎日学校へ行かなければならないかが分かっていません。子供たちは、毎年毎年、厳しいレッスンを受け、先生たちはいつも、本当に分かっているかどうかをテストします。神さまもまた、私たちにレッスンを与え、人をテストし続けられます、こんな困難に出会う理由がないと人が思う困難をお与えになることを通して。
 でも、神さまにはそうする理由がありました。人が御子に似たものとなっていくように望まれ、その助けをなさっているのです。イエスさまはこの世に来て、暮されました。だからそのことがお分かりになるのです。サタンが私たちが失敗させようとしているのを、イエスさまはご存知です。しかし、イエスさまが目指しておられるのは、人が神さまの意図した通りのものになっていくことでした。確かに、これは厳しいことです。でも、イエスさまがともにいて助けてくださるのです。こうおっしゃっています:
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイの福音書 2820節 
 神さまは、すべてのことを益に変えてくださることを学ばなければなりません(ローマ人への手紙 8:28)。この真理を知ることが、この厳しい世を生き抜き、永遠の命に備えるためのよき助けとなるでしょう。イエスさまはご自分が学ばれたことを私たちに教え、こうおっしゃっていました。何事にも心を悩ましてはなりません。心配してはなりません。思い煩ってはなりません。
 こんなご命令に従うのは、決して生やさしいことではないと、人生経験の長いあなたは知っているかも知れませんね。それでも、人生で最も厳しい状況でイエスさまが私たちにくださる言葉は:「恐れないで、ただ信じていなさい。」でした。
 イエスさまは、この世において苦しみを受けました。しかし、よみがえられたのです! だから、私たちもまた、よみがえるのです!
(2008年11月のメッセージ)

2020年10月 9日 (金)

感謝と賛美

不平ぶつぶつ、それで幸せになれますか?

 あなたは不平屋さんですか? もしそうなら、あなたのつぶやきが、自分や周りの人たちの祝福になったことがありますか? つぶやいて人に元気を与えたことがありましたか? 不平をつぶやくとはどんなことか、本当の意味をご存知ですか?

 いくつか例をあげてみましょう:参った、もう起きる時間だよ! あの車、前に割り込んだな! うちの上司は不公平な人だ! ひどい天気だぜ! どうせ働くだけの人生さ!

 思わず不平不満を言いたくなるような例なら、誰でもいくつでも挙げることができます。アダムとエバも、神さまが彼らに隠し事をしているに違いないと思う誘惑に勝てませんでした。その結果がどうなったかは、皆さまはよくご存知です。

 ブツブツ不平を呟いても、それが罪だと思う人はまずいません。不平を言えば、まずかったかなとは思うでしょう。でも、それはそれだけのことですー特に、誰にも聞かれない環境でつぶやいた時はそうです。でも、聖書、例えば、コリント人への手紙110章10節などを読めば、待てよと考え直すことになります。

また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。" コリント人への手紙 第一 1010

  なんと、これは警告ではありませんか!。特に、”つぶやいてはいけません。”と言う御言葉に注目してください。注目すべき御言葉はもうひとつあります。

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。"   ヤコブの手紙 59

 ここでは、さらに強い言葉が使われていました。

  不平をつぶやくとは、人が困難な環境におかれた時に行う、ごく自然な反応にすぎないと思われがちです。だから、至る所でつぶやく声を聞くことができます。しかし、父なる神は、私たちが、”いつでも、すべてのことについて、私たちの主、イエス・キリストの名によって父なる神に感謝”(エペソ人への手紙 5:20 )しなさいと言っておられます。だが、人には、他に従いたくないないと言う、生まれながら持っている性質がありました。

 神さまは、人のつぶやきや不平不満について、人とは違う視点でみていることが多いのです。丁度、親たちが子供たちの間違いを、彼らとは違う角度から見ているのと同じことです。

 でも、ここに良き知らせがありました。人が生まれながらにして持っている、従いたくないと言うこの性質を克服する方法があると言うのです! それなら、その方法をしっかり学ぶべきでしょう。

 人は、”感謝すること”を訓練できると言うのです! 不平を呟きたくなると言う人の堕落した本質を克服する手段として、神さまはこの方法を備えてくださっていたのです。もし私たちが、すべてのことに感謝することを実行できるなら、神さまが、すべての問題を益として下さることが期待できるのです(ローマ人への手紙 8:28 参照)。

 結構すぎて信じられない話だ、と思いますか? かって私も全く同じように思っていました。しかし、神さまは、少しづつ時間をかけて、御言葉が真実であることを私に確信させてくださったのです。かって私は、まさに不平の専門家で、そうすることにまったく罪の意識を持っていませんでした。しかし、聖霊さまが教えてくださいました。そうすることが、自分自身だけでなく周りの人たち、いや、神さまさえ、どれほど不幸にしているかと言うことをです。

 神さまが人を創造されたとき、不平を呟きたいと言うガスを抜く弁を、人の体に設置されませんでした。人が不平をつぶやくなどと言うことは、ご計画のうちになかったからです。しかし、人がご自分が希望される歩みをしなかったので、神さまは驚くほど愛に満ちた対処法を考案されました。人が不平を呟きたくなりそうな事すべてを取り上げて、それらを祝福のために用いて行こうと言われるのですーもし、神さまはそうしてくださると人が信じるなら。

 思い出してください。イエスさまは、人がイエスさまを信じたとき、その人たちを癒されたのではなかったですか? だから、もし人が神さまに何かして欲しいと望むなら、すでにしてくださっていることへ感謝することを学ぶべきでしょう。私たちの信仰をたてあげる助けになる事なら、なんでも大きなプラスになる事です。だから、信仰を向上させるためなら、なんでも喜んでするべきです。

 神さまは、かってこの世で起こったすべての事柄を手にしておられ、それらを、この困難な世にあって私たちを助けるごための計画に用いようとされています。さらに神さまは、私たちが神さまを信じ、すべてをお委ねすることを求めていらっしゃいます。人がそれを実行するとき、神さまは、すべてを御手の内で支配され、すべてのことが最善となるようにされるのです。

 そう、神さまは、私たちが不満をつぶやいた時でさえ、愛していてくださいました。さらに、神さまの御力が、私たちのうちで、また、私たちを通して働く方法も与えていてくださいました。ここで、もうひとつ、御言葉を見てみましょう。

"いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。"

ピリピ人への手紙 44

  いつも感謝さえしていれば、望むものはなんでも与えられると言ったように聞こえたでしょうか? もしそう聞こえたなら、お許しください。申し上げたことの真意は、”神さまの目から見て、最善の物が与えられる。”ということです。

 

 

 

 

 

2020年9月分 (2008年2月に書かれたもの)